かつて彼の青春ラブコメはまちがっていた。

かつて彼の青春ラブコメはまちがっていた。

アンソロジーで描かれる新奉仕部の姿は、通常の、あるいはありふれたラブコメとして描かれる。このこと自体が八幡と雪乃が成長した事を示す、と考える。

旧奉仕部では、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」というタイトルに反して、まともに青春ラブコメをしてきていない。結衣も雪乃も終了間際まで告白に至らないし、結衣と雪乃が八幡を奪い合うこともしていない。本編中の八幡は単に人間関係構築スキルの獲得と自意識過剰の克服に終始していて結衣と雪乃のいずれを選ぶかでは一切悩まなかった。雪乃はアイデンティティの獲得に終始していた。いずれにせよ八幡と雪乃は個人の成長が主眼であって調整や駆け引きは結衣のみが担当していた。

しかし新奉仕部では八幡も雪乃も結衣もいろはも典型的ラブコメに参加する。それは、彼ら彼女らがある程度の自我や社会性を獲得し、人間関係を維持できる程度の社交スキルを手に入れた、普通にラブコメできる程度には成長した、という姿である。

八幡は、プロム危機、雪乃の危機に面して初めて、 やるべきこと、考えるべきことははっきりしている。それ以外のことを、今は除外する。vol.13, l.0504 とした。これ以降八幡は雪乃への好意を認める。自身の思考を他人に伝える。教室で結衣に声をかける。八幡は過剰な自意識の排除により成長し、他人と交流する手段を持つ、他人が交流する価値のある人間になった。アンソロジーで八幡が王道三角関係ラブコメの鈍感系主人公を担い得る姿は、 「すっごい誤魔化し方」vol.A2, l.3057 , 「すっごい誤魔化し方」vol.A4, l.3281は、すなわちその成長の描写であろう。八幡はもはや自身に好意を持つ誰かを拒絶しない。

雪乃に絡もうとする結衣と、それを受け入れる雪乃の姿は、本編中で描かれた結衣の決断と彼女らの合意の表現、である。そもそも、アンソロジーで描かれる結衣の行動は、 こんなの、まちがってるってわかってるけど。vol.14, l.6168 と決断したその結果の行動である。結衣は新奉仕部における幸福が刹那的である、たかだか在学期間中しか続かない、とは理解している。この結衣の故意にまちがえた決断に対して、しかし雪乃は 「きっと、ずっと続くわ」vol.14, l.6688 、結衣との友情を在学中を超えて一生続ける意思、を示した。

新奉仕部でのいろはのアプローチも、八幡や雪乃が成長したという表現である。 「ちゃんとしてくれないと、こっちもちゃんとできないんですから。」vol.13, l.1235 に従い、八幡や雪乃がちゃんとした、駆け引きの対象となる程度に成長してくれた、だからいろはもアプローチできる、という描写である。いろはは結衣や雪乃の許容範囲を把握した上で八幡を利用して彼女達にじゃれついている様にも伺える。

あるいは俺ガイルは物語の開始時点からハーレムエンドを想定していたとも考える。なぜならば新奉仕部の姿は、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」という文字列を先入観なしに見た場合に抱く姿、2011年当時の残念系ラブコメの舞台、主人公は普通の人間であるがヒロインたちが残念である姿、に等しいから。言い換えれば、旧奉仕部では、まちがっていたのは八幡の(さらには読者の)認識や行動であったが、しかし新奉仕部では、アンソロを含めて、主人公の主観が正しく、雪乃や結衣やいろはの行動がまちがっている。

「色ボケ」と揶揄されたコミュニケーション過剰な姿は、しかしかつて奉仕部に危機を齎したコミュニケーション失敗、情報の欠損による誤解、を起こさない姿でもある。今後新奉仕部が内部要因で危機に陥るとすれば、奪い合いや過干渉や倦怠によるものであって、それらはやはり感情のやり取り、典型的なラブコメ、となるだろう。

本稿は2020年4月、アンソロジー出版後俺ガイル新刊行前の執筆である。その後の刊行物を踏まえた再考察はしていない。