プロム編中での関係性の変化

プロム編中での関係性の変化

俺ガイルの終幕での奉仕部の関係性を要約すると

となる。

プロム篇開始時点の 言語化できない程に複雑で繊細な関係性 と比較すれば、奉仕部の関係性がプロム篇を経て如何に安定したかを示せよう。青春ラブコメのハーレムルートのテンプレ、以上の言語化は必要あるまい。

本稿はこの関係性のプロム篇中での変化を示す。

八幡と雪乃

「八幡が雪乃を選んだ事は主観ではまちがっていない」事を強調する反語的表現として、「客観的には、社会通念上は、八幡と雪乃の関係性はまちがっている」として描かれている。八幡が雪乃を選んだことも、雪乃が八幡を選んだことも。繰り返すが、八幡の主観では雪乃を選択したことはまちがっていない。そして恋愛では本人が主観で満足していればそれが全てに優先する。

雪ノ下家は読者の嫌悪を催すべく造形されている。これらは八幡は雪乃を選ぶべきではない、という表現であろう。具体的には女性上位の創業家一族であること、県議+地場建設業という既得権益層であること、高学歴や富裕層あるある、モンスターペアレント、ポリティカル・コレクトネス、等々。

存在するだけで価値を貶め続ける、どうしようもない偽物だ。vol.14, l.3729

物語の終幕において本物とはもはや八幡と雪乃の関係の理想像を示すものではない。 「雪ノ下の問題は、雪ノ下自身が解決すべきだ」はまちがっている。 を参照。

「お前の人生歪める権利を俺にくれ」 / けしてまちがいのないように / 「歪めるって何?どういう意味で言っているの」vol.14, l.5052

結衣との対比。雪乃にはまちがいのないように伝えたところで伝わらない。

「……覚悟決めてね?」 / 「これからは雪乃ちゃんと同じくらい、可愛がってあげる」vol.14, l.6228

「明日、夕飯食べに来ない?母が良かったらって言っていて。」 / 「それ断れない?」vol.14, l.6590

「……そのへんの責任も、まぁ、取れるなら取るつもりです」vol.14, l.4835 の代償。

これらはアンソロジー雪乃sideではより具体的に描かれる。 「どうせあの子、逃げらんないんだし」vol.A1, l.3255 / 「彼、成績はどうなの?どのあたりを受験するとか聞いているの?」vol.A1, l.3560 等。

「あなたが好きよ。比企谷くん」vol.14, l.6541

雪乃は言いにくくても本当の事を言う。

俺ガイル本編を通してトリックの核であった「雪乃は嘘をつかないが、本当のことを言わない事がある」という設定が失われる。

けど、死ぬほどめんどくさいところが、死ぬほど可愛い。vol.14, l.6548

かつて雪乃の描写の文脈は叙景と同様の客観的なものであった。一方で 「お前の人生歪める権利を俺にくれ」vol.14, l.5052 以降、雪乃を描写する表現は主観的な表現が続く。

かつて八幡を悩ませた自意識とは自身の客観を気にするという状態であって、その自意識がどうあろうとも、幸福とは自身の主観であって、さらにその幸福という主観を二人で共有している、という描写が八幡と雪乃の最終的な関係性であろう。

八幡と結衣

八幡と雪乃の関係とは逆に「客観的には八幡は結衣を選ぶ事が正しかった」として描かれている。最終的な「本物」は結衣を指す。

これから先、こんな日常が待っているのかもしれない。vol.14, l.2018

八幡はケーキ作りとして描かれた結衣とのこの日常を失う。雪乃と同じくアンソロジー結衣sideでは失った日常がより具体的に示される。

取り返しがつかないほどに歪んでしまったこの関係は俺たちが求めたものではおそらくなくて、どうしようもない偽物だ。 / だからせめて、この模造品に、壊れるほどの傷をつけ、たった一つの本物に。vol.14, l.3970

「偽物」は八幡と雪乃の関係、「模造品」は対句的に八幡と結衣の関係。であるから、「たった一つの本物」となるものは傷ついたその模造品であって、すなわち結衣と八幡との関係こそが物語の終幕での「本物」である。

まとまりきらない言葉を、ゆっくり慎重に口にする。 / 「けど、お前はそれを待たなくていい。」vol.14, l.4272

まとまりきらない言葉のままでも、しかし、結衣はまちがえない。

「人の気持ちどころか自分の気持ちも踏みにじるカスなんです!」vol.14, l.6123

八幡が結衣を切り捨てた行為が「自分の気持ちも踏み躙る」行為であった、のだろう。

こんなの、まちがってるってわかってるけど。 / でも、あたしはまだもうちょっとだけ、浸ってていいのかもしれない。 / あの、あったかくて眩しい陽だまりに。vol.14, l.6168

由比ヶ浜はたぶんまちがえないvol.11, l.3973 など、結衣は俺ガイル本編を通してヒントの核であった。しかし、結衣がまちがっていると解っている行動を故意に取ることで、今後はこの正しさが失われる。

結衣は、八幡と雪乃への合流、新奉仕部への参加、がまちがっているとは把握している。それは「もうちょっとだけ」しか続かない、例えば在学期間中という時限があることも把握している。概ね常に正しかった結衣が、まちがっていると知りつつそれを選択する。結衣は八幡の方法論に倣って故意に間違えて、あるいは八幡と同種の自己犠牲の元に、3人が望んだ新奉仕部の姿を獲得する。

八幡が 何も言わなくても通じて、何もしなくても理解できて、何があっても壊れないvol.08, l.4169、以下同 と望んだ、 現実とかけ離れた、愚かしくもきれいな幻想vol.08, l.4170 こそが、八幡と結衣が至った関係性である、と言えよう。

結衣と雪乃

プロム篇は結衣と雪乃の物語でもあって、結衣はプロム篇では八幡のみならず雪乃との人間関係を維持するべく暗躍していると思われる。 本物の本質あるいは結衣案2とその変化 参照。

「何年も何十年もかかっちゃうくらい」 / 「全部やるまで一緒にいるから。……だから、だいじょぶ」 / 「わかった?」 / 「ほんとにちゃんとわかった?」vol.13, l.2876

「……だから、(雪乃と八幡との仲はどうあれ、結衣から雪乃への友情は)だいじょぶ」。雪乃と結衣の間の友情を維持する宣言であって、その友情を八幡と雪乃の関係のもつれから切り離す宣言、でもある。

「ゆきのんの気持ちごと、全部貰う」 / 「あたしの気持ちも全部貰って?」vol.14, l.2039

八幡を想う気持ちの共有。八幡を交えて三人で過ごす為の条件あるいは言い訳。但しこの密約を八幡は知らない。

「あたしの好きな人にね、彼女みたいな感じの人がいるんだけど、それがあたしの一番大事な友達で……。」vol.14, l.6677

八幡への告白であると同時に雪乃への告白。「一番大事な友達」。

結衣の初回の依頼を繰り返した言葉であって、八幡には通じない、結衣と雪乃の2人にのみ通じる秘密の言葉、である。 結衣の最初の依頼は「料理を上達したい」ではない。 参照。

結衣も、雪乃も、この告白を以て、葛西臨海公園での3人で共通する願いである 「ずっとこのまま」vol.11, l.3962 のその全てを手に入れる。「傷も痛みも、全部欲しい」vol.14, l.2047 さえも。八幡も雪乃も結衣もその好意が明確化された状態で。

「ずっと続くと思うから」 / 「そうね。……きっと、ずっと続くわ」vol.14, l.6688

結衣の「ずっと」は まだもうちょっとだけvol.14, l.6168 、たかだか在校中の新奉仕部を想定する。けれども雪乃の「ずっと」は一生の友情を意味するだろう。 「何年も何十年もかかっちゃうくらい」vol.13, l.2874

この純粋なハッピーエンドが結衣と雪乃の最終的な関係性である。

余談 いろは

他の誰かに、たった一つの正解を突きつけられても、俺はそれを認めることなんかしないvol.14, l.6454

「人の気持ちどころか自分の気持ちも踏みにじるカスなんです!」vol.14, l.6123

八幡はいろはの提案を認めない。気持ちを踏み躙った。詳細は 一色いろはも考えて行動している を参照。

「諦めないでいいのは女の子の特権です!」vol.14, l.6147

そして結衣のみならずいろはも諦めない。 「わたしのためです」vol.13, l.1209 に代表されるような、自身の気持ちを踏み躙らない強さを保ちつつ。

すなわち、いろはは、どれだけ踏み躙られようと、諦めることなく、「わたしのためです」と嘯きながら、その「たった一つの正解」を八幡に示し続けることができる。いろはは八幡らの「まちがい」にどこまでも付き合っていける。これがいろはと八幡らの最終的な関係性である。

プロム篇とは現代を舞台にハーレムエンドを描く試みである

メタな視点になるが、プロム篇で八幡と雪乃と結衣の関係性が描かれた意図は、「真正面からラブコメを描く」、もっと言えば「ハーレムエンドに至る過程を説得力とリアリティのある形で描く」であろうか、と思われる。

俺ガイルはしばしば群像劇として評され、多ヒロイン型のラブコメとして分類される。しかしプロム編で関係性の描写がもたらす効果は、群像劇としての技法でも、ラブコメとしての表現でもない。

プロム篇での八幡と雪乃と結衣は、三人ともが異なる案に基づき行動する。この構造自体は群像劇と言える。しかし雪乃や結衣の案は八幡の視点では明示的には描写されない。群像を描く事で見えてくる何か、全体像、テーマ、は存在したとしても読者に伝わらず、よって俺ガイルの構造は群像劇という技法の一般的な目的とは一致しない。

また多ヒロイン型のラブコメは本質的に「どのヒロインを選ぶか」を主題とする。しかし八幡は「結衣と雪乃のどちらを選ぶか」について悩まないし、結衣と雪乃の関係性が強く描かれている。

すなわち、俺ガイルが3人の関係性を描く目的は、群像劇でもラブコメでもない。

であるならば、俺ガイルは、「ハーレムエンド」というテンプレラブコメの王道に至る過程を、現代を舞台として、ただただ丁寧に描こうとした、と考える。

2011年当時から2020年の現在に至るまで、誰か一人の異性を選択した上で、それでもなおハーレムエンドを維持する、という状態は、多くのラブコメ読者の理想であろう。しかしその過程で、作品や読者は、女性側の人間関係の軋轢や主人公の倫理観をひどく都合の良い形で無視する。俺ガイルは、結衣と雪乃の友情を描き、かつ八幡や読者に「一度は結衣を振った、筋を通した、まちがっているのは結衣だ」という言い訳を与えることで、それらの欺瞞を超えようとしてみた、と考える。

ハーレムエンドに説得力があったかどうか、その是非は個々の読者が判断すればよい。だがしかし、その成否を理屈で判断しようとするなら、雪乃と結衣の物語に着目してみて欲しい。感情を理屈で踏み躙る事が出来るなら、あるいは少なくとも私は、もう「円満な三角関係を努力で維持しようとする行為は不自然だ、欺瞞だ、偽物だ」とは断言し得ない。