本物とは脱構築である。
「だから、ずっと、疑い続けます。」vol.14, l.6454
かつて本物とは「理想的な人間関係」として定義されていた。八幡は後に「疑い続ける」を解とする。曖昧な言い換えの様であって、しかし近代哲学がポストモダン哲学に移行した上での大きな発明、脱構築に相当する。
八幡は、この脱構築を示す事で、平塚からの卒業、「本物」という理念そのものを追う物語の終焉、を示す。
言い換えれば、いわゆる異世界転生は、中世ファンタジーに、火薬羅針盤活版印刷、教育や経済やスマホなどの、後世の発明を持ち込んで無双する、という構造だった。俺ガイルは同様に、啓蒙を求める18世紀哲学に、脱構築という20世紀ポストモダンの発明を持ち込んで、あがいて悩む、ということ。
存在するだけで価値を貶め続ける、どうしようもない偽物だ。vol.14, l.3729
取り返しがつかないほどに歪んでしまったこの関係は俺たちが求めたものではおそらくなくて、どうしようもない偽物だ。/だからせめて、この模造品に、壊れるほどの傷をつけ、たった一つの本物に。vol.14, l.3970
これらを理屈として読めば、本物とは、 「お前はそれを待たなくていい」
vol.14, l.4367 で壊れる程に傷ついた結衣と八幡の関係、である。ここで、「偽物」は八幡と雪乃の関係、であるから対比的に「模造品」は八幡と結衣の関係である。
切り捨てられた結衣は、しかし八幡の意を汲み、新奉仕部に参加する。 何も言わなくても通じて、何もしなくても理解できて、何があっても壊れない。
vol.08, l.4169 という形を本物とするならば、それは八幡と結衣の姿である。「お前はそれを待たなくていい」 参照。
理解したいだなんて、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。/その醜い自己満足を押し付け合うことができて、その傲慢さを許容できる関係性が存在するのなら。vol.09, l.3078
かつて「本物」とは理想的な人間関係の状態であった。普遍的で不変的なもの、啓蒙や努力により達し得るもの、であった。
「お互いがお互いのことを想えばこそ、手に入らないものもある。」vol.09, l.2793
あるいはまたかつて「本物」を求める過程は典型的な二律背反であって、本物とはその解、すなわち問答法や弁証法などにより求め得るもの、であった。
本物とは人間関係を壊すものである 参照。
平塚が八幡に本物の定義を促す過程がソクラテスの問答法、ヘーゲルの弁証法に近しい。
「聞いたら怒られるぞ」/
「そういうんじゃないですよ」vol.14, l.6443
「好きってだけじゃ足りない」/
「それは、本物と呼べるかもしれない」vol.14, l.6449
「どうですかね。わからないですけど」vol.14, l.6451
しかし問答法の目的は解を導けずに終わらせ自身の無知を悟らせる事であって、本質的に問答法は行き詰まる。これと同じく平塚による本物の問答も行き詰まる。
平塚は本物の定義を 「別れたり、離れたりできなくて、距離が開いても時間が経っても惹かれ合う」
vol.14, l.6449 と止揚する。しかし、「本物とは人間関係のとある状態である」「本物は求めても手に入らない」という相反する命題に対して、本物とは人間関係のまた別の状態だという平塚の定義を、「どうですかね。わからないですけど」
として、八幡は肯定しない。
平塚のこの定義が不十分である理由は、例えば、今後八幡は人と出会うたびにこの人間関係の定義を繰り返す必要がある、など。例えばある人物に会うたびに八幡はそれが本物か否かを検討し、問答し、止揚を繰り返すこととなる。よってその定義は常に正しくない。
「だから、ずっと、疑い続けます。」vol.14, l.6454
「だから、せめて問い続けよう。そのぶん、君は考え続けたまえ」
/ これからも、ずっと問うて答えて考え続ける。
vol.09, l.4905 、 「その違和感についてずっと考えなさい」
vol.11, l.2398 などの繰り返し、ではある。
先に述べた通り弁証法は「本物とはまた別の状態である」という解を導く。これに対して、「本物の存在を、あるいは人間関係を、疑い続ける」を導いたこの手法は、いわゆる脱構築である。脱構築とは、ポストモダン哲学、文学、芸術、建築、などの中心的な技法であって、対立する命題について、その構成要素を解体し、暗黙の前提を見つけようとする思考法、あるいは芸術や建築の文脈で用いられた場合にはさらに再構成すること、である。このとき、「...し続ける」という表現は、脱構築した結果に頻出するキーワードである。
八幡の場合には、「本物が欲しい」と「本物は手に入らない」が対立する。この対立により八幡は、 考えてもがき苦しみ、あがいて悩
vol.14, l.6440 む。「本物を求め、しかし手に入らない」と「考えて悩む」の関係を構成要素に解体すると、言い換えればなぜ本物を求めると悩むのかという理由は、 自分たちの選択が正しいかどうかは、きっと、ずっとわからない
かつ 他の誰かに、たった一つの正解を突きつけられても、俺はそれを認めることなんかしない
から、一言で言えば「八幡が自分も他人も疑うから」である。これらを再構成すると、自分たちの選択や、他の誰かが突きつけた正解について、 「ずっと、疑い続けます。」
vol.14, l.6454 という、人間関係を求める姿勢、となる。
あるいはまた、八幡の 「変わらないですねぇ」
vol.14, l.6436 に続く 「ずっと、疑い続けます。」
という宣言は、八幡が「本物」に漸近する手段を獲得した事を意味する。この宣言は、デリダの言う差延、すなわち、ある状態と次の状態の差異あるいは微分、という視点の獲得に近しい。つまり、八幡は、本物について観測できるのであるから、その差延の観測を続け、その観測結果を積分することで、つまり疑い続けることで、「本物」に漸近する事ができる。
かつて「本物」とは「偽物ではない」という意味で用いられた。しかし「本物」とは「偽物ではない」という意味でしかないのだから、そもそもが明確には定義し得ない。この脱構築の手続きにより「本物か否か」という対立が崩れ、本物を定義する必要がなくなる。本物を定義しないまま誰かを、雪乃を受け入れることができる。
プロム後の八幡は、本物と共依存の双方について、モダニズム以前の啓蒙主義や記号論で扱われた様な悩みを訴える。平塚はモダニズムによる解法を提示し、八幡はその解法に従い自身の悩みを打開する。
その後の合同プロムにて、モダニズムに留まる平塚に対して、八幡は、ポストモダン的な宣言を示す。
これらは八幡の成長、平塚からの卒業、を端的に表現する。平塚の示した「本物とは人間関係のまた別の状態である」という再定義は、しかし、一度きりのものであって、すなわち、八幡が一度成長するに過ぎない。一方で、「疑い続ける」という、関係性を変化させる姿勢を獲得したことは、八幡が今後持続的継続的に成長すること、を意味する。
下記の点からして俺ガイルが哲学をモチーフの一つとしているという指摘は我田引水ではあるまいと厚顔無恥にも牽強付会しておく。
俺がデカルトの言葉をパクりながらvol.01, l.0366 。物語のその冒頭に近代哲学の父デカルトの言葉を引用しようとする。デカルトの「我思う、故に我有り」は「自分以外の全てを一度疑っていても、疑う自分の存在だけは正しい」という原点の定義である。「ずっと、疑い続けます。」はそもそもがこのデカルトの態度とも近い。
超人vol.05, l.2261 と評する。この定義、誰にも理解されない、はニーチェの言う超人を引用すると言える程度には近い。
寄る辺vol.11, l.3741 を持たず陽乃や八幡の模倣に過ぎないという造形はニーチェの超人への批判に等しい。
そして手法として描かれた(あるいは私が知る)弁証法や脱構築は、現代ビジネススキルでのアイディア発想法や思考法として応用されたそれらであって、哲学分野での本来の主張や手法からは変質している。であるからその変質の程度によっては、脱構築は弁証法よりも新しい、よって成長を示す、という理屈は成り立たない。が、なかったことにはならないけれど、忘れてしまうことにした。