しかし共依存という記号は機能する。
「共依存」とは、陽乃が、雪乃に干渉しようとする八幡を牽制する為に用いた言葉である。雪乃と八幡が共依存の状態にある、という設定を示す言葉ではない。
本稿は、陽乃が(あるいは著者が)この単語を選択した理由と、八幡がその言葉に縋る理由が、記号論をモチーフとしている事を示す。
単純に言えば、「共依存という言葉は、なんだか難しそうで、言外に『恋ではない』という意味を持つから、拘ってしまう」。
「言っても伝わらない」
vol.09, l.3054 、 「言葉なんかじゃ、うまく伝わらない」
vol.14, l.3914 は哲学の一分野、記号論の主題である。すなわち、ある言葉について、その言葉から受ける印象、語感(=シニフィアン)やその言葉の意味(=シニフィエ)は人や時間や状況によって異なる。
かつ、言語相対性仮説によれば、思考は言語が規程する為に、言語化できない事柄、概念については、思考の対象とすることができない、ともされる。
さらに、ジャック・デリダは、言葉は自ずから多数の意味を持ち、それら多数の意味から主導的な意味が生まれるとし、かつ、そこで抜け落ちた意味にこそ目を背けている何かが存在する、と指摘した。
「共依存」という言葉が選ばれた理由は、この言語相対性仮説と記号論及びデリダの指摘の組み合わせだろう、と考える。
なお、「共依存」が記号論を元に選ばれた単語である事、それがシニフィアンによるものである事、はそれぞれ 「わかりやすい記号で済ませるなよ」
vol.14, l.3911 と その言葉はどんな本物よりも真実めいた冷たい響きを持っていた
vol.12, l.4520 が直接的に示す。
八幡は雪乃への感情の定義を 感情も関係性も定義してはいけなかったのだ。
vol.11, l.2854 として避けている。よって、八幡から雪乃への感情を定義できる単語が存在しない。言語相対性仮説に従って、八幡もどう行動するべきかが解らない。
他方、「共依存」という言葉は専門用語であって狭く強い意味を持つ。「共依存」という言葉の響きの印象(シニフィアン)は三角関係などの様なものよりずっと暗く固く冷たく、「共依存」の意味(シニフィエ)は好意の存在を削ぎ落とす。八幡にとって共依存という言葉はその響きが固く暗く冷たくしかもその意味が好意を含まない事に意味がある。
以上に従って、陽乃は、八幡の思考から雪乃への好意をそぎ落とすべく、「共依存」という言葉を提示した。そしてその通り八幡は、自身の雪乃への感情を、「共依存」というシニフィアンとシニフィエに寄せた。これにより、その差、つまり雪乃への好意が、八幡の思考から抜け落ちた。そして八幡は、削ぎ落とされた雪乃への好意を考慮しないまま、共依存という言葉を否定すべく、依存ではない事を証明しようとした。
構造主義の時代では、言葉を重ねてその差延を記述し続けたものが、ある物語のシニフィエである、とする。プロム直後の平塚、 「一言で済まないならいくらでも言葉を尽くせ。」
vol.14, l.3943 はこれに明確に相当する。
この平塚の言に一度は従った八幡は、しかし、自身の雪乃への感情を、 本音も建前も冗談も常套句も全部費やしたって
vol.14, l.5093 表現できない、とした。具体的に 「共感と馴れ合いと好奇心と哀れみと尊敬と嫉妬と」
vol.14, l.6447 という差延を記述し続けたとしても、多数の語感の良いシニフィアンの集合に寄せたとしても、やはり思考から抜け落ちる概念が存在し、むしろそこから抜け落ちる概念にこそ意味が発生する事態は変わらない。たとえば端的にここには雪乃を端的に象徴する(本当は)「かわいい」が含まれない。
これらに対し、八幡は、 伝わらなくても構わない。
/ ただ伝えたいだけだ
vol.14, l.5098 という宣言を解とした。結衣の 「その分、あたしがわかるからいいの。ゆきのんもたぶんそうだよ」
vol.14, l.4312 と合わせた、この差延を調整し合う行為こそが、「言っても伝わらない」という近現代を貫いた問題に対する著者なりの反駁であろう。
個人的にはこの種の簡単なことを衒学的に解釈する行為には賛同しない。
しかし読者は、「『共依存』とはメンヘラを口説くバズワードではなく病気であって、医者が扱わなければならないもの」の様な常識を持つ読者こそが、八幡と同じく「共依存」という言葉に囚われる。読者は、その固定観念に基づいて、共依存と言う言葉を軽々しく使うべきではない、として陽乃あるいはさらに作者を咎め、しかし陽乃の言を疑わなくなる。八幡と雪乃は共依存にはないという事実を見落とす。
であるから、正しい読解の為に、「共依存」という言葉自体がミスリードを意図した言葉であった事は留意するべきであろう。
ところでシニフィアンシニフィエは日本最強のパン屋さんだと思います。