葉山と陽乃さらにはやはち

葉山と陽乃さらにはやはち

Interlude が誰の独白かを特定することに意味はない。「それは誰しもの独白でもある」と章タイトルにある通りである。

第一の手記、あるいは誰もがその成長過程で葛藤する。

俺ガイルの登場人物、少なくとも Interlude が想定する葉山と陽乃と八幡の三人は既に思春期を迎えている。

誰しもが思春期には自身を社会に溶け込ませる過程、アイデンティティを獲得する過程、を経る。すなわち、他者とコミュニケーションする上で、誰もが、コミュニケーションする為の仮面の自分、ユング心理学の用語を用いればペルソナ、を作る。そしてその仮面の自分と本当の自分自身の乖離、すなわちコンプレックスを発見する。誰もがそのコンプレックスに違和感を覚え、しかしそのコンプレックスと正対させられること、それを指摘される事を嫌悪する。そしてやがてその嫌悪感が薄れ、ペルソナを自然に無意識に使役する様になる。

人間失格と走れメロス

両作とも太宰治著。

人間失格は「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」と章が分かれる構成を取る。

人間失格の第一の手記の「主人公」は子供ではあるが社交的な人物に囲まれしかし自意識に苛まされている。主人公の性格は概ね葉山や(目が腐る前の)八幡に近いだろう。

人間失格の第二の手記の前半で、主人公は自身の二面性を見破られ、大学生となった後もその二面性、社交スキル「お道化」を見破られる事に怯える。一方で葉山は、道化を見抜いて欲しい、糾弾されたい、と考えている。この差、承認欲求と自罰願望、が葉山が解する「太宰が一顧だにしなかった軽々しい問題」だと思われる。

「走れメロス」は思春期の前後で解釈の変わる作品の典型である。その境界が17歳と19歳、葉山と陽乃にある、としても同意する。メロスが走る理由としフィロストラトスが気が狂ったと評する「なんだかもっと恐ろしく大きいもの」は何か、が典型的な例題である。例えば充分に子供あるいは受験生であれば、メロスの視点で、王に賭けられたもの即ち「信実」と答えるし、大人であればフィロストラトスの視点で同調圧力、社会秩序を守る義務、と答える。

陽乃の「メロスやセリヌンティウスの仲間になって信実を試したい、壊したい」という言は、太宰は邪智暴虐の王こそが正しいという解釈を故意に残した、という論の一種であろう。メロスやセリヌンティウスは途中で一度悪い夢を見た、邪智暴虐の王はそれと同じく途中で一度良い夢を見ただけだ、という論である。

なお、シンジツとは、邪智暴虐の王が改心の際に述べる「信実とは、決して空虚な妄想ではなかった」の「信実」と「真実」とのダブルミーニングだろう。

メロス超速いよねー

メロスは、「十里の路」、約39km を往復する。往路は深夜発、陽は既に高く昇った頃の着、である。復路は薄明の頃の発、日没着である。いずれにせよ10時間程度として時速4km、どう見ても走ってない。というのは有名な話。だろうか。

第二の手記、あるいは葉山も陽乃も道化の暴露に怯えしかし糾弾を望んだ。

第二の手記の章は、前半の話者は八幡とも葉山とも取れる様に書かれている。後半、「きっと自分は」以降の話者は葉山と陽乃が適合し、八幡には適合しない。葉山と八幡が類似ししかし異なる、という表現であって、八幡が人間失格をその途中で読むことを止めた事に重なるだろう。

「その外面もまた陽乃の魅力だよ。外面だと気づいた人間はその腹黒さ、強かさを好ましく思い始める」vol.05, l.1117

「めんどいのも含めて、さ」 / 「やっぱいいって思うんじゃん」vol.10, l.4077

そもそも葉山と陽乃は、周囲にはその内面と外面の乖離に気付かれている。かつ、それを糾弾されることなく、その乖離さえもが好かれている、ことまでもが等しい。

ただ、自分はシンジツによって糾弾されたかった。おためごかしのお道化を見抜いてほしかったのだ。vol.10, l.3427

葉山は、八幡に、自分を見抜いて欲しい、ともすれば自罰的に糾弾されたい、と思っていて、

「そういう煩わしいの、やめてくれないか」 / その声に微笑はない。握られていたはずの拳は力なく緩められ、声には力も抑揚もない。vol.10, l.1777

しかし 自分のことだけは見てもらえない。vol.10, l.3430 として失望する。

「……俺は君が思っているほど、いい奴じゃない」vol.09, l.1804

その通りに実際に葉山は八幡には露悪的であるし、

お前はみんなの望む葉山隼人をやめたいんだvol.10, l.3779

いい奴だと思えずにいるvol.10, l.3479 ことをヒントにして八幡は葉山の道化を見抜く。

それは人の期待に応えることに特化したおためごかしのお道化に過ぎないのかもしれないけれど、ああも完璧にやられてしまうと文句の一つも出やしない。vol.10, l.3923

しかしそれでも八幡はむしろその道化を称賛し、糾弾には至らない。

「っていうかそういう細かいことなら、ヒキタニくんのほうがわかるんじゃない?」vol.10, l.2771

あるいは海老名も、葉山のこの感情、欲望を見抜きつつ、しかし糾弾することには興味がないか、あまつさえそれを楽しんでいる。

「だから君の言う通りにはしない」vol.10, l.3820 / 「君に負けたくないんだよ」vol.10, l.3850

望んだ糾弾を得られなかった葉山は、理系選択による人間関係の破棄、走らなくてもいい、という八幡の提案を拒否し、

勝つのが、みんなの期待に応えて見せるのが、葉山隼人を最後まで演じ切って見せるのが、自分だと、そう言った。vol.10, l.3849

みんなの期待に応え続ける事を選択する。

「誰かの背中を無理に追う必要もない」 / 「それも含めて、俺だよ」vol.10, l.4140

葉山は、みんなの為ではなく、自分の意思で、みんなの期待に答え続けた陽乃の背中を追う事、を選択する。望む糾弾が為されぬまま、葉山は陽乃を追う事を改めて誓い、それを誇りさえする。

第三の手記

第三の手記の章の話者は、前半は葉山及び陽乃、 そうしているうちにvol.10, l.4203 以降は陽乃である。こちらは、葉山が陽乃を追っている為に、葉山が現在直面している葛藤を、陽乃は既に経験してきた、という表現だろう。

つまり葉山がこのまま陽乃を追っても恐らくは陽乃と同じ諦観に達するだけだということ。あるいは多くの人間が成長過程で諦観に至る様に。

昔は村の牧人に共感をしていたように思う。vol.10, l.4195

「村の牧人」とはメロス。「走らなくてもいい」と言う八幡は「もう走らずとも良い、陽は暮れる」、と言うフィロストラトスに重なるし、走り続ける葉山の姿は、フィロストラトスを拒否し「なんだかもっと恐ろしく大きいもの」の為に走るメロスに重なる。つまり、葉山にとって「なんだかもっと恐ろしく大きいもの」とは、みんなの期待、である。

甘やかな響きを持つ言葉に耳を貸すうち、自分を信頼の魔物に変えていく。裏切ることは許さないと心中で嘯くのだ。vol.10, l.4198

「それしか選びようがなかったものを選んでも、それを自分の選択とはいわないだろ」vol.10, l.4174 。 葉山は既に陽乃の期待を裏切る選択肢を選べない。 「それでも……。俺は選ばない、何も。」vol.10, l.4187

覆い隠した結果が他人には真実の姿として映り、やがてそれが当たり前になって、真実の姿になっている。vol.10, l.4200

陽乃は葉山よりも数年先を歩む。そこでは陽乃は周囲の期待に応え糾弾されなかった姿を常態としている。陽乃にはもう既に外面と内面の乖離の葛藤はない。その結果として、「なんだかもっと恐ろしく大きいもの」を、 正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。vol.10, l.4196 として見限っている。

きっと見抜いてくれる人がいるのだと、そればかりを待っていた。vol.10, l.4203

陽乃も誰かに自身の内面を見抜いて欲しいとは思っていた。しかし結果として、それを指摘する人物はいなかった。

だから内側に入り込んでまた試したいと、壊してみたいと思っているのではないだろうか。vol.10, l.4210

11巻のお料理イベントで陽乃が雪乃と八幡に干渉する動機。本物が実在するか否かを知りたい、より具体的には、ただ他者の仲を割いてその仲の脆さに安心したい、同時にその仲を割くことに失敗して自身がまちがっていたと知りたい、という状態。