リーダーシップ論

リーダーシップ論

雪乃、めぐり、海老名を通して、6巻及び6.5巻ではリーダーシップが描かれる。これらのリーダーシップ像は経営学でのリーダーシップ論の引用である。

恐らくレヴィンによる民主型・放任型・専制型の三種のリーダーシップ類型を引用している。また、陽乃と覚醒後雪乃に、コリンズによる「ビジョナリーカンパニー2」が定義する有能な経営者の2例、カリスマ型リーダーと「第5水準のリーダーシップ」とを引用している。

それぞれのリーダーシップ法に優劣はない。指揮する集団の特性に応じて適切なリーダーシップ法は異なる。むしろどのリーダーシップ型であっても構成員のサボタージュは致命的である。

海老名姫菜 は 民主型

海老名姫菜は民主型である。目標設定と人間関係の維持とをリーダーが行いその遂行を構成員に任せる。明確なビジョンを提示し、適材適所を徹底した上で権限を委譲する。 「何かあったら私が責任取るから!」vol.06, l.1237 が権限委譲を伴うリーダーの典型的な台詞である。

今回のクラスの様にさらなる統制・組織化が可能かつ必要な集団に対して適切な手法である。あるいは企業では部門を横断する様なプロジェクト型組織のリーダーに適する。本来はスキルやリソースの獲得が容易な組織でなければ機能しない手法だが、文化祭のクラス演劇程度ならば高度なスキルは不要だろう。

城廻めぐり は 放任型

めぐりは放任型である。人間関係を重視し目標設定も権限も委譲する。メンバーの人心を掌握しメンバーの高いモチベーションによりプロジェクトを遂行する。めぐりの挨拶に対して すかさず生徒会メンバーがぱちぱちと拍手をするvol.06, l.0531 など、生徒会メンバーが自律的に行動する描写が典型である。

作中の生徒会の様にコミュニケーションが充分に成熟している集団に対して適切な手法である。 生徒会の役員たちはさすがの団結と責任力だvol.06, l.1727 。 あるいは企業では構成員の変動が小さく構成員の不満が小さな部門、典型的にはマネージャー職や経営層の統率に適する。一方で今回の文化祭実行委員会の様に成熟していない集団に対しては機能しない。

覚醒前雪乃 は 専制型

覚醒前雪乃は専制型である。リーダーは各構成員の目的や目標を具体的に設定する。構成員の能力、成長、動機、等を平準化して扱う。あるいは期待さえしない。 「記録雑務にその役職以上のことを望んでいたわけじゃない」vol.06, l.2167 という発言が代表である。

終身雇用や低賃金などの理由で労働のモチベーションを持たない層、アルバイトや低学歴等の低能力層、の統率に適する。一般的な日本企業での最も優秀な現場リーダー職の姿である。但し成熟した集団ではマイクロマネジメントと呼ばれモチベーションの低下の要因となる。業務で優秀な人材が課長昇進した際に部下との能力差に苛まされ当人も部下も疲弊する姿はまさしく典型例。

今回の文化祭実行委員会の様な未熟な寄せ集め集団に対しては最適な手法だろう。

陽乃 は カリスマ型

陽乃が吹奏楽OBを指揮する姿はカリスマ型である。専制的ではあっても人心掌握によりメンバーのモチベーションを最大化する。もっとも恐怖による統治と紙一重であって、リーダーに心酔しない種の構成員が疎外感嫌悪感を覚え離脱するために、人材の確保が十分に容易な組織でなければ機能しない。Microsoft社ビル・ゲイツ, Apple社故スティーブ・ジョブズ, Amazon社ジェフ・ベゾスらが典型例とされる。つまり努力や意思によって到達できるリーダーの姿ではない。

覚醒後雪乃 は 第5水準のリーダーシップ

覚醒後の雪乃のリーダーシップは、「第5水準のリーダーシップ」と呼ばれるものであろう。担当者が業務遂行に責任を負える事を前提とし、その信頼を前提とする。 「統制部は有志代表者と交渉。」vol.06, l.2543 に代表される。例えばこの台詞であれば、交渉は利害関係の調整であってすなわち自分が損害を被る可能性があり、委任する上で担当者に対する信頼が必要である。

Linux創始者リーナス・トーバルズ、Google創業者ラリー・ペイジやセルゲイ・ブリンやエリック・シュミット等が相当するとされる。但しこの第5水準のリーダーシップ自体を否定する論も多い。典型的にはその振る舞いが「HRT原則」「サーバントリーダーシップ」などとして充分に定義されてしまっていて、その振る舞いを模倣するリーダーや経営者が増えた為に、リーダーを評価する基準として機能しない。

相模南は一般人。あなたも私も。

話者が八幡であり、比較対象が雪乃であるために、相模のリーダーシップの欠如が強調される。が、本編が記載する通り、あるいは著者も読者も誰もが自省する通り、通常の組織の構成員の過半は能力もモチベーションもリーダーシップもフォロアーシップも持たない。

かつ、いずれのリーダーシップ手法であってもサボタージュには機能しない。サボタージュへの対策はリーダーの権限の範疇ではなく経営の領域である。

相模南の描写について、渡航氏は社会人経験が反映された、と述べていた。そのとおり、リーダーシップ論は経営学の一分野であって、9巻での問題解決法と同様、これらは企業での管理職研修として習得する部類である。逆に言えばその種の研修を施さなければほぼ全ての社会人は相模と同様の層に属する。なんなら自分はリーダーシップを備えていると勘違いしているだけの一般人は自身のスタイルのマイナス面を把握していない分だけ無能の部類だと言える。

例えば一般に就職面接で「リーダーシップを担った経験」を問う理由は「リーダーを困らせる行為を知っているか」「サボタージュや過度の躊躇は組織を瓦解させてしまうことを知っているか」を問いたいから、である。一度でも飲み会を企画主催したことがあるなら「安くて美味くて喫煙席でおしゃれで可愛い娘居るなら行けたら行くわ」とかな超困る事を言ったり「あいつ行かないなら俺も行かないわ」的な事を言ったりしなくなる。やめてね。君も。俺も。