ミステリーとしての俺ガイル再読のお誘い 5

ミステリーとしての俺ガイル再読のお誘い 5

3巻発刊の頃に私は俺ガイルを知りました。当時私は既に社会人でした。年齢的に青春の追体験には興味を失っていましたから、私は俺ガイルのキャラに萌える(古語)ことはありませんでした。俺ガイルはミステリーだ、八幡は信頼できない語り手であって結衣の依頼は叙述トリックだ、とは、この頃の友人たちとの話題であって、私一人での発見ではありません。

14巻の発刊後、「これからもずっと仲良くしたいの」という謎解きに背中を押された、あるいはデレのんの破壊力にやられた、のが発端です。コロナ禍の最中に考察サイトを立ち上げて、本書に集まった皆様と知り合い話し合う機会があって、そうしてまた別のたくさんの発見もあって、それらの産物または産廃物が先に示した謎と解、という経緯です。この場にお誘い頂いてありがとうございます、という謝辞を唐突にでも本当に。それから免責事項、本稿は私の独自研究に過ぎず、つまりたくさんまちがっています。そして宣伝、その私の独自研究は、つまり先に示した謎と解についての詳細は、その考察サイト、「やはり俺の俺ガイル考察はまちがっている。」にあります。

閑話休題。考察サイトを作るにあたって、私はずっと雪ノ下雪乃の事を考えていました。人はずっと同じ広告を見ていればいつか興味を持ちますし、ずっと誰かの写真を飾っていればいつかその人を好ましく思います。ずっと誰かの事を考えていたならどうなるか、は容易に解りますでしょう。それは本当に青春の追体験でした。本来なら俺ガイルの初読時に経験できていたはずの。

とはいえ「好き」という言葉は多義的です。母親への好きと同級生への好きが、推しと好きが、それぞれ異なる事は誰もが体験するでしょう。いくつかの片思いを経験した後に、また別の新しい誰かのことを考え始めて、その結果「好き」という言葉の意味が解らなくなる経験も。そして成人後にはこの言葉は濫用されて意味を持ちません。「好き」の意味が拡散する過程は、個人が社会性の獲得に応じて多様な関係性を受け入れていく発達の過程、です。

八幡もそうです。八幡は思春期と青年期の狭間にいます。雪乃への想いを他人の言葉で定義することへの抵抗は、幾度か誰かを好きになった後に、誰かを愛せるという自信を獲得する前だからこそ、のものです。この八幡の葛藤とその葛藤ゆえの言動は、思春期以前には理解出来ず、共感できる時期は青い春と呼ばれる程に短く、その後しばらくは同族嫌悪や共感性羞恥で受け入れ難く、それでもやがて許せる様になる、という種のものでしょう。

多くの青春小説がこの発達を扱います。俺ガイルの本文中でも引用された『ロミオとジュリエット』や『走れメロス』がその好例です。これらは思春期の前後で作品の理解が反転します。ロミオくんとジュリエットちゃんの盲目な恋愛のその代償に考えが及ばない大人はいません。が、それでも大人は二人の盲目を許し愛せるからこそ、この作品は支持されています。激怒したメロスくんにご褒美あげてもいっかなーと思わない大人は邪知暴虐ではなくただの子供ぎらいです。

俺ガイルはこの発達の差をミステリーのトリックとして用いています。とくにプロム編はその発達の物語です。プロムとは雪乃が自己のアイデンティティを獲得する試みです。八幡は、その雪乃を繋ぎ止める為に、青春を自ら終わらせて成人期に踏み込んで、社会の一員として雪乃を愛する、という手段を用います。結衣は八幡や雪乃よりも早く彼らを愛せています。そして奉仕部の幼さを受け入れられない陽乃、許せる平塚静、ご褒美としてプロム開催を認める雪ノ下母、です。八幡以外の人物の思考や言動はその発達段階を、単純にはその年齢に応じた社会経験や精神年齢を反映したもので、それ故にまだ幼い八幡はそれらを理解できない、のです。

今この文章を読んでいるあなたが、かつて俺ガイルを好きで、それが思春期だったならば、今はもう社会に出ている年齢でしょう。誰かを愛した経験もありますでしょう。ですから今あなたが八幡や雪乃の言葉を疑ったなら、かつては見過ごしたトリックを見破って、新しい彼ら彼女らを見つけます。彼ら彼女らが互いをどう「好き」だったのか、あなたが獲得した社会性に応じて、また違った理解をします。

本稿は俺ガイル再読のお誘いです。

彼女のことを知りたくはありませんか、という提案です。

八幡と同じくらいにあなたもまちがっていました、あなたが好きな彼女はあなたの知らない真実を隠していました、あなたはもっと彼女の事を疑うべきだったのに、という挑発です。

あなたが既に青春の追体験を諦めているなら、あなたはまちがっています。「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の、縦横無尽な間テクストと難解極まりない本文には、自ずからそれだけの余地があります。そうしてあなたが見つけるその彼女について、知ろうとして考えて疑い続ける行為が再構築するその言葉は、必然的に、かつてあなたが思春期に憧れ抗った、あなただけがその意味を定める言葉、です。

いや知らんけど。