ミステリーとしての俺ガイル再読のお誘い 2
俺ガイルはキャラクター小説です。そして各登場人物は、ラブコメとしてのキャラクターに加えて、ミステリーの登場人物としてのキャラクターを持ちます。この章はそのキャラクターを示します。
俺ガイルの地の文は八幡による語りです。この地の文は、小節ごとに四種に分類できて、それぞれにルールがあります。
一、八幡による他人の思考や感情の推測はまちがっています。ミスリードとして読者を誤解させる為の文章です。本編での八幡の推測はほぼ全てがまちがっている、とさえ言えます。
二、八幡は他人の外面を正しく観測しますし、小説的技法は正しく機能しています。すなわち、台詞や表情や動作などの正確な把握と、比喩の具体化、対比構造の発見、叙景による内面の推測、などの小説的な読解とが、読者が登場人物の内面を理解する為の手段になります。先に述べた通り、八幡による他人の内面の推測はまちがっていますから、読解の結果と八幡のモノローグとが異なるのであれば、それこそが手がかりです。
三、八幡自身の心情表現や思想あるいは与太話は事件の要因や遠因です。これらは、ルサンチマンでそれ故に心地よく、名言の多さ故に「ぼっち哲学」などとも称され、俺ガイル人気を牽引したパートではあります。が、八幡が何かを見逃す理由であったり、齟齬やコミュニケーション不全の言い訳であったり、少なくとも良い方向には働きません。
四、他作品やネットミームの引用はトリックには関与しません。これらは本筋から気を逸らす要素、ミスディレクションであって、謎を解く上で引用元を知っている必要はありません。
次に、八幡を信頼できない理由、八幡が他人の思考や感情の推測をまちがえる要因、が四種あります。
一、雪乃の言葉足らずによるもの。雪乃については後述します。
二、八幡自身の自意識や未熟さによるもの。八幡は、結衣や陽乃などのより成熟した人物の立場になって考えることができない、とされています。ジュブナイル小説が読者に自身の成長を実感させる技法であって、「読者の人生経験によって理解が変わる」を実装する技法です。
三、八幡と他人の知識の差によるもの。つまり八幡が裏事情を知らないからまちがえる、という状況です。あるいは八幡だけが事情を知っていて、雪乃や結衣がそれを知らず、だから彼女達は八幡の言動を理解しない、という状況もあります。一般的に小説は登場人物間の情報共有の描写を省略します。登場人物の知識に差はないと仮定して、言動の差で性格を描写します。他方、ミステリー小説とは、犯人が知り読者が知らない事情を暴く小説です。犯人がその事情を知る場面が存在しますし、逆説的に、会話シーンが描かれない情報は共有されていない可能性があります。このルールは俺ガイルでも共通です。
四、単純な齟齬。話者が齟齬に気付かず、訂正しないまま連続する、という会話が多くあります。これらはラブコメのコメディーの部分、解りにくいけれど笑うところ、です。
プロム編での雪乃視点の章を除いて、雪乃の感情や思考は一切描写されません。むしろ取り除かれています。ラブコメのヒロインとしては不自然な程に。
他方、雪乃には、一読して意味の解らない、印象的で抽象的な台詞、が存在します。主語や目的語を欠いていたり、接続詞の意味が矛盾していたり、違和感のある単語が一つだけ含まれていたりします。
これらの雪乃の印象的な台詞が「読者への挑戦状」です。本文中に描写されなかった雪乃の感情や思考は何か、を問うています。この問いはその時点までに本文中に現れた情報だけで解ける様に書かれています。欠けた単語、矛盾した接続詞、単語の違和感、の全てが手がかりです。
そして、雪乃には、ラブコメとミステリーの相乗効果、が集中します。
プロムでのロミオとジュリエットがその典型例です。このシーンは、コミュニケーション不全を抱える八幡と雪乃が、奉仕部の終焉という最大の危機に面して、初めて感情の共有を達成した姿、です。そして、このシーンでは、雪乃は八幡に好意を持っているだろうか、どの程度の好意だろうか、という、物語中最大の謎の解が開示されます。つまり悲恋の到達点とミステリーのカタルシスとが同じシーンに重なっています。
雪乃については、本文中で描写されない感情や思考が、そのまま解くべき謎となっています。雪乃をヒロインとして印象付ける台詞が、そのまま読者への挑戦状となっています。さらに、雪乃の感情や思考を推定するという行為自体が、八幡が至った本物に関する宣言、「疑い続けます」と等しいものです。ですから、俺ガイルでは、ラブコメとしてのヒロインの魅力を増す手段として、ミステリー小説の技法が用いられている、と言えるでしょう。
なお、全ての謎を雪乃が提示しているわけでも、全ての謎が雪乃の感情や思考を問うているわけでもありません。結衣・いろは・葉山なども謎を提示していますし、例えば八幡自身の行動の意図、さらには飼い猫の感情などを問うていることもあります。
結衣は負けヒロインで被害者です。八幡のまちがった言動は幾度も結衣を傷付けます。けれども八幡には結衣を傷付けた自覚がありませんし、地の文でもそうは表現されません。ですから、結衣が傷ついたということ自体、読者が読解する必要があります。例えば「本物が欲しい」の後に八幡は結衣が伸ばした手を払い除けます。葛西臨海公園で八幡が決定的にまちがえた一言の後で、結衣は既に涙を流しています。これらは八幡が結衣を傷付けた表現です。
そして結衣は手掛かりを示します。結衣はまちがえませんし、結衣は正答を前提に行動します。八幡は結衣の発言や動作を正しく描写しますから、結衣の言動は時に八幡の理解や思考と矛盾します。これらの矛盾が八幡がまちがえていることを示します。
例えば修学旅行編、八幡による海老名姫菜への嘘告白により、八幡は海老名の依頼を達成したと考えています。けれども結衣は「失敗だったね」と評します。つまり結衣は海老名姫菜の依頼を知りません。
あるいは八幡の「本物が欲しい」に対して結衣は「私も手伝う」として距離を置きます。なぜならば八幡は結衣との関係性を本物だとは考えないにもかかわらず、結衣はこの時点の八幡が考える「本物」の条件を既に満たしているから、です。
このように結衣には、ラブコメとしての負けヒロインの役割と、ミステリーの被害者として手がかりを残す役割とが重なります。これを本稿ではダイイングメッセージを残す、として近似しました。
もちろん結衣は自身が常に正しいとは知りません。ミステリー小説のメタな限界、「登場人物は自分の正しさを証明できない」の通りです。ですから結衣は、物語の最後に八幡と雪乃のいる場所に駆け出すときに、それがまちがいだ、と考えています。その駆け出した結衣がやはりまちがっているのか、が俺ガイル本編の最後の謎でしょう。その暫定解、新奉仕部の姿を示した作品が『俺ガイル新』です。
平塚静は正しい解法とまちがった解答とを示します。例えばクリスマスイベント編で、平塚は、八幡は感情を理解していない、と指摘します。が、八幡は雪乃の感情について解ろうとさえしていませんから、この指摘はまちがっています。一方でこの時の平塚は、網羅して消去するというブレインストーミング手法を提示します。密室ではない、選択肢が発散する場合のミステリーの解法としては消去法はフェアではありませんから、敢えてその解法を明示しているのでしょう。これは具体的には、「本物が欲しい」直前の目的語を欠いたままの雪乃と結衣の諍いの、その目的語の推定法、だと思われます。
雪ノ下陽乃と葉山隼人はトリックスターで、いくつかのケースで犯人です。かつ目撃されませんし決定的な証拠も残しません。陽乃は雪乃を守る為に介入し、葉山は陽乃に従って行動し、しかし陽乃の知らない事があったり八幡がまちがえたりして問題が起き、そして陽乃はその想定外の展開さえ意図的であった様に振る舞う、というパターンが複数回あります。陽乃はぽんこつなモリアーティ教授で、葉山はその手先です。
さらに葉山隼人の描写は八幡自身の描写です。八幡が抱える問題や葛藤には、八幡自身が考えることを避けている、と宣言しているものがあります。八幡が考えない以上、これらは地の文には表れません。これらは葉山の問題や葛藤として描かれています。例えば修学旅行編では、結衣と雪乃のどちらも傷つけられない八幡のジレンマは、海老名姫菜と戸部翔のどちらも傷つけられない葉山のジレンマとして描かれています。雪乃を失った後の八幡に訪れるであろう後悔は、陽乃を得られなかった現在の葉山の後悔として描かれています。
八幡が取り得る行動のうち、正答は比企谷小町が、誤答は材木座義輝が示します。コミックリリーフとして振る舞い、前触れも脈絡もなく唐突に解だけを放り込んで、それを解だとは示さない、読者もそうとは気付かない、というパターンです。とくに3巻での材木座の言動は、プロム編での結衣や雪乃のキャラクター設定、雪ノ下母との対峙における八幡の行動、などの多くを先行して提示しています。
ミステリーとしての一色いろはは雪乃と等しいでしょう。特に9巻のディスティニィーランド帰りのシーンは、台詞の構成要素の一部を隠してミスリードする、という雪乃と同等の手法を用いています。こんなのほとんど告白です。さらに本編完結後、アンソロジーなどの新奉仕部編での彼女は、雪乃に代わって読者への挑戦状を示す役を担っています。