比企谷八幡はやはりまちがっている。

比企谷八幡はやはりまちがっている。

などなど個々の要素のカテゴライズは可能だけれど、それらを融合魔改造してしまった結果の比企谷八幡というキャラクターは世界初、唯一孤高のアンチヒーローと言ってしまっていいよね。多分。知らんけど。

いろはが雪乃との仲を評した なんかあったら即vol.14, l.6070 という見込みは割と同意してしまう。なぜならば、雪乃ENDは周囲の協力と偶然の積み重ねの結果過ぎる、から。八幡は結衣なしでは雪乃に「諦めてほしくない」とは伝えられなかったし、陽乃の示唆なしでは雪乃の願いが代償行為だとは看破できなかったし、平塚の助言なしでは共依存という言葉から開放されなかった、から。なんなら結衣が誘わなければプロムに参加してないし、いろはが音響を割り当てなければ雪乃とのロメジュリもできていない。ロメジュリができなければ陽乃が代償行為だと示唆することもない。

でも八幡は雪乃を愛する為には自分を変えると思う。5巻で雪乃に押し付けた八幡の理想像、「他人に理解されない、他人を理解しようとしない」は物語の後半でいつのまにかなくなっていくのだけど、これが誰かに指摘されたのか、成長したのか、雪乃を愛する為に捨てたのか、作者が忘れたのか、みたいな事は書かれてない。だったら雪乃を愛する為に自分を変えたに賭けるよ。

八幡のぼっち自体は周囲より成長の早いひと、いわゆる精神年齢の高いひとあるある。中学生程度の社会性の時点で平均的高校生くらいの主体性持ってたひと。中学受験しておけば楽だったパターン。鶴見留美とか幼少時雪乃とかな小学校高学年だとこの種の発達の差はもっと辛くて、自身は秩序を重視するけれども、周囲は自他の分離、他人の尊重さえ獲得していない、みたいな状況になる。単純には周囲の全てが馬鹿に見える。

だけれども八幡のぼっちキャラの描写はネットに落ちているような「ぼっちあるあるエピソード」の寄せ集めに見える。中二病高二病自意識過剰ナルシスト系、周囲より早熟していて周囲との共通の話題が無い系、自閉症あるいは発達障害系、論理を感情よりも優先させようとする態度、等々が無差別に集まっている。

八幡は自意識過剰ゆえにまちがえる。その早熟性ゆえに活躍する。であってもぼっち組は誰でも彼のエピソードの一部に共感できてしまう。結果として、自分は自意識過剰ではないから間違えまい、でも八幡と同じ様に自身も周囲よりも早熟であるのだろう、いつか活躍できるのだろう、と考える様な、八幡に自身を重ねようとする人たちが一時期とても多かった。

走れメロスやロメジュリが読者の社会性獲得に伴ってつまり思春期以前とそれ以降とで印象が反転する作品であることは既知だろうとして、俺ガイルもそういう面は強く持つ。成長しなきゃ解らないことだって、あるよ。